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御祭神について

島津家第17代義弘公

島津義弘公|宗教法人 精矛神社|

                            (尚古集成館蔵 )

天文4年(1535)年、薩摩国伊作亀丸城に生まれる。

第15代貴久公二男。母、入来院禅正重聡の女子。

初め又四郎忠平と称す。後、将軍足利義昭より諱を賜り義珍、後に義弘。

天文23(1554)年、岩剣城の戦いにて祁答院氏らと戦い、初陣を飾る。

永禄3(1560)年、川上経久より乗馬の相伝を受ける。

元亀2(1571)年、同氏より弓馬の相伝を受ける。

元亀3(1572)年、木崎原の合戦

伊東義祐が加久藤城を急襲するも木崎原にて壊滅。

父貴久公没す。

六地蔵塔を建て、敵味方区別無く戦没者を手厚く供養した。

天正6(1578)年、耳川の合戦

大友宗麟、伊東義祐連合軍6万の軍勢を島津方4万の軍勢で戦う。

天正12(1584)年、龍造寺氏を肥前島原に討つ。

天正13(1585)年、守護代となり、八代を拠点に肥後・筑紫へ進出

天正14(1586)年、岩屋城の戦い

筑前高橋招運を打つ。

天正15(1587)年、根白坂の戦い

豊臣秀吉の和睦勧告を無視して豊後大友義統を攻めた結果、大友氏は逃れ、大友氏の要請を受けて豊臣軍が九州を征伐。

薩軍は敗れ、降和。

天正20(1592)年、朝鮮出兵(文禄の役)

義弘公と久保(嗣子)、栗野松尾城より出陣。

碧蹄館の戦い、李和松率いる明軍と戦う。

文禄2(1593)年、久保巨済島にて急死。代わって家久が出陣。

慶長2(1597)年、朝鮮出兵(慶長の役)。帖佐城より出陣。

慶長4(1599)年、紀州高野山に高麗陣敵味方供養塔を建立。

「惟新」と号す。

庄内の乱、伊集院忠真が興すが家康が調停に入り、

島津方へ帰順。

慶長5(1600)年、関ケ原の合戦

桜島の藤野に蟄居

慶長7(1602)年、本領安堵、隠居

慶長11(1606)年、平松城へ移る。

慶長12(1607)年、加治木屋形へ移る。

元和5(1619)年7月21日、加治木屋形にて死去。

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